さよなら















 待っている。
 この冷たい石の階段に腰を下ろし、時計を見ながら過ごした時間がどれほどあっただろう。
 聞きなれた足音が近づいてくる。
 こうしてここで足音に耳を澄ましたことが、何度あっただろう。

「ごめんごめん。待った?」
「ああ」
「……嘘でも否定しろって何度言ったら分かるのかねぇ、君は」
「生憎、意味もなく事実でないことを口にする趣味はない」
「じゃあ、意味があったら嘘吐くんだ?」
「ああ」
「だからそこ否定しとけって」

 何でもないことで、会話を続けていく。
 それがどんなに、セブルス・スネイプという男にとって新鮮な行為であったか、彼女は知らないに違いない。
 こうして話をしながら、あの天窓を見上げたことが何度あっただろう。

「曇ってんねぇ」

 天窓から見える空模様に、が愉快そうでも不愉快そうでもなく、のんびりと言う。
 普段どおりの調子に呼応するように、スネイプも平静に返す。

「それがどうした」
「いんやーべっつにー、ただ…」
「ただ?」
「雨が降りそうだと思ってさ」

 この最後フ日のことを、全て覚えておきたくて。
 曇っていたことも。
 雨が降りそうだったことも。
 こうして天窓を見上げて、天気の話をしたことも。
 そのときのあなたの面倒臭そうな表情も。科白も。全部。

「外に出てみようか」

 脈略のない提案に、スネイプは怪訝そうに眉を寄せる。今まで、そんなことを言い出したことはなかった。
 それを読み取ってはへらっと笑う。

「今日は、特別な日だから」

 しばらくの沈黙の後、スネイプは溜息と共に腰を上げた。
 非常に面倒臭そうな顔を、ひどく上手くつくりあげて。
 一瞬だけ口元に淋しげな笑みが浮かんだのは、もしかしたらには見えなかったかもしれない。



 草を踏む。
 もう、雪はない。
 ただ冷たい風だけが、まだ季節が冬であることを知らせている。
 草を踏む。
 足音はしない。
 ただ踏み倒されて、また起き上がった草だけがその事実を知っている。

「おい」
「なあに」
「雨が降るぞ」
「降るだろうねえ」

 はマフラーをくいっと下げて、顎をマフラーの中から発掘する。
 ほうっと息をつくと、まだ白い息が見えた。
 スネイプは後ろをついて歩きながら、睨みつけるようにして空を見上げている。

「お前、もしかするとアレか。雪とか雨とかでずぶ濡れになって、風邪を引くのに快感を感じる新手の変質者か」
「面白い推測をありがとう。そしてそれが絶対的に間違っていることをここに宣言しておきます」
「意味もなく事実でないことを口にする趣味のある人間の言葉を信じろと?」
「誰がどんな人間だって?」

 振り返ったの顔は、薄く笑っている。
 どんなときでも笑っているから、彼女の涙を貴重だなどと考えてしまうのかもしれない。
 夏祭りのときも然り。クリスマスも然り。

「そんな人間から、プレゼントがありまーす」

 はポケットの中から、用意していたものを取り出す。
 鎖の部分を持って、スネイプに見せる。きょとんとしている彼の表情を笑って、それから無造作に投げて渡した。
 慌ててポケットから手を出し、スネイプは飛んできた物体を掴む。

「これは?」
「どの角度からどうやって見ても懐中時計ですね。まあ見方を変えれば、硬いから多少の凶器にもなるかと」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「今日は、特別な日だから」
「…そうか」
「うん」

 口を休めることなく、スネイプは時計を裏返したり蓋を開いたりして観察する。
 特に特徴はない。蓋の内側に、“S・S”と彫りこまれている程度だ。
 しかしつくりは至って丈夫で、本来ならメッセージや彫刻をオーダーし、世に2つと存在しないものとして売られるものなのだろう。
 大概そういうものは、定価より高額だ。

「……高かったろ」
「ヘソクリがパアさ」

 フッと諦めたように遠い目をして笑う。
 スネイプはするりとそれをポケットに仕舞う。

「数年分の誕生日プレゼントを一度に渡したと思えば……諦めはつくよ。それに」

 襟から銀色の鎖を引っ張り出して、にっと笑う。

「これも貰ったし?」

 クリスマスに貰った、“最後のプレゼント”だ。
 スネイプも値段の数字と桁数を思い出し、まあ妥当なものだろうと横柄に頷く。

 ぱたりと音がして、空を見上げると頬に水滴が落ちてきた。
 雨だ。

「でもわたし、アクセサリー1つくらいじゃ満足しない女だから」
「…嫌な女だな」
「お黙り」

 スネイプの上にも雨粒が降ってくる。
 肩に、顔に、水滴が落ちてくる。

「だから数年先か、数十年先か、このネックレスの価値分の時間が尽きたあたりで、またプレゼント貰いに行くよ」

 雨はあっという間に大降りになってきた。
 天から降る水が地上を叩く音で、急に辺りは騒がしくなった。

「じゃあお前もこの時計の価値が尽きた頃には、出費を覚悟しておけ」
「あーもしかするとその頃金欠だったりするかもしれないなー」
「その時は借金でもするんだな」
「鬼」
「なんとでも言え」
「陰険、根暗、鬼畜、油あた」
「このパターンはそろそろ飽きたぞ」
「……じゃ、他の手考えとく」

 降り続く雨に、2人は濡れそぼつ。
 しかし、話をやめるのを怖がるかのように、そのまま動こうとしない。

「そのときは、桜を見にお前の家に行く。お前の言う桜の並木道がどんなものか見てやろう」
「びっくりして叫ぶかもね。近所迷惑だからやめてよ?」
「誰が?」
「君が」

 スネイプはゆっくりとした足取りで、に近寄る。
 そうしないと、雨の音で声がかき消されてしまうのだ。

「数年先か、数十年先か、いつか私はお前にい…」
「ねえ、それって」

 がスネイプの言葉を遮る。


「それっていつの話?」


 雨が2人を濡らしている。
 頬が別のもので濡れていても、気付かれないほどに。

「数年先か、数十年先か。そんな日本当に来るの? いつかっていつのこと? わたしは」

 は雨の中、泣いていた。
 瞳からぽろぽろと、雨とよく似た水滴が零れ落ちた。

「わたしは本当に、もう一度セブルスに会えるの!?」

 スネイプは手を伸ばし、の頬に触れた。
 雨のような、涙のような、曖昧な水を指の腹で拭った。

「どれくらい待てば良いの? どれくらいしたら戻って来るの? 夏休みの頃みたいに笑って、おかえりなさいって言える日は来るの? 君にもう一度ただいまって言える日は来るの?  何か贈り合える日は来るの? 桜の見られる日は来るの? 君が握らなかった手を差し出したまま、泣いているわたしを探しにきてくれるの? その日までに君がもし」

 どしゃぶりの雨は冷たい。
 2人の体温はどんどん下がっていく。
 泣きながら、は果てのない不安を堰を切ったように吐き出し続けた。
 そして一瞬、息を吸うために沈黙し、最大の不安を言葉にする。

「もし、その日までに君が、死んでしまっていたらどぅ」

 その先の言葉は呼吸と一緒に、強引に抱き寄せたスネイプの唇に塞がれてしまった。

 の頬は濡れていた。
 スネイプの頬も濡れていた。
 雨かもしれなかった。そうでないかもしれなかった。

 雨が降っていた。
 いつしか数メートル離れれば人の顔を視認できないほどの、酷い土砂降りになっていた。
 どの校舎のどの窓からも、どの場所からも、2人の姿は見えなかった。

 2人は長い間離れなかった。




「必ず」



「必ず、会いに行く」



「信じてくれとも言わない。待っていてくれとも言わない」



「だから覚えていてくれとだけ言わせろ」



「どれだけ時が経っても、私でない誰かを愛しても、私という存在があったことだけは忘れるな」






「必ず生きて帰る」





「だから、その時までに返事を用意しておけ」










 踵を返した男は、もう振り返らなかった。

 普段どおりの足取りで、真っ直ぐに歩いて雨の向こうに消えていった。

 泣き崩れ膝をついた女を、抱きとめようとする人間はいなかった。


 涙も雨も女の歔欷も、土に吸い込まれて消えた。















 あなたが好きでした




















2004/11/6

 これが別れ。でも別れって、なんだろう。
 この2人にとっては、ただ“会えなくなること”は別れじゃないんだから、
 それなら2人は、どんなことを考えていたんだろう。
 それだけは、書いているわたしにも、あんまりよく分かりませんでした。
 あと一話。