もう大丈夫だ ワタシは その日















「じゃ、ちょっと行って来るよー」

 明るく友人たちに声をかけ、は談話室を出て行った。
 暖炉に近いソファの上で丸くなっていたが、少し顔を上げてそれを見送る。
 は最近のの変化にきちんと気付いていたし、その原因もに聞かされて話から理解していた。
 不幸な子たちだと嘆くのは、懸命な彼らに対しての侮辱であるような気がして、ただは見守りつづけることしかできなかった。
 はよく外出をする。何の目的もない散歩ではない。一応、にはなりの用事があるのだ。だが、あの主の支えノなるべき肝心なときに、傍にいれなかったことが悔いてならない。だが今更そんなことを言っても何にもならず、そしてまた今日も外出する予定なのだ。
 1000年という時を生きてきたのに、変わらない自分の無力さ。
 戦う力など、こんなときには何にもならないのだと、とうの昔に分かっていたはずなのに。
 思い出すのは夏休みに聞いた、彼女の父親とその親友の会話だ。

 ―――たとえ2人の間に、そんなものが芽生えたとしてもだ
 ―――辛いだけさ
 ―――スネイプが自分の感情のみで突っ走れるほど青臭い男だったら、もしかしたら幸せになれたかもしれん
 ―――俺の親父が『彼』でさえなければ、あの子はセブルスに走り寄れたかもしれない
 ―――こんな時代でなかったなら、今のままの2人でも幸せになれたかもな

 あの2人は、自分達の進んできた道のその過程を誰よりも理解していたから、この結果を予測していたのだろう。
 とスネイプが、自分達の利益のためだけに何もかも捨てられるほど愚かでなく、他の大切な者たちのことも視野に入れてしまう、不必要な冷静さを持っていることも。2人が幼い頃からの環境ゆえか、一歩引いたところから客観的に自分の立場を見極め、行動することを身につけてしまっていたことも、分かっていたのだ。
 イブは燃える暖炉の火を見ている。
 黄金色の瞳に、炎が映る。
 そう、あの日のあたしも、と同じく限られた時間をひしひしと感じながら生きたのだ。
 あれほど悲しいことはなく、そしてあれほど幸せな日々はなかった。
 は目を閉じて、温かい炎さえも拒絶した。

「リリー、ぼーっとしてどうしたんだい?」

 談話室にやって来たジェームズが、の近くに座っていた恋人に声をかける。
 リリーははっとして顔を上げ、ジェームズを見て軽く首を振った。

「何でもないわ。ただ、のことを考えていたの」

 は主の名前にぴくりと反応したが、眠ったふりをしたまま動かなかった。
 ジェームズは訝しげな顔をして、リリーの隣に腰を下ろす。
 リリーは疲れた顔をして、瞳を伏せた。

「あの子があんまり、最近幸せそうだから」

 ジェームズは首を傾げる。

「確かに楽しそうだね。最近は前に比べてよく笑ってる。でも、それがどうかしたのかい? 幸せそうなのは良いことじゃないか」
「違うの。違うのよ、ジェームズ。あの子は幸せそうだけど、それは完全なものじゃないの。いいえ、完全な幸せなんて本当はどこにもないものなんでしょうけど、それでもあの子はあんな風に笑える位置にいるはずがないのに」
「リリー? 言っていることがよく分からないんだけど、それは僕が世界で稀に見る大馬鹿者だからかな?」

 ジェームズが真顔で問うと、リリーは泣きそうな顔で少し微笑んだ。
 ジェームズはリリーがあまりに悲しそうに笑うので、自分が考えている以上に真剣な話をしているのだということにようやく気付く。
 そっと肩を抱くと、普段ならば気の強い彼女に払いのけられるのだが、今日は全く抵抗を見せなかった。
 ただぐったりと俯く。

は強いわ。少しでも一日を楽しく過ごそうと懸命になっている。それを当事者でないわたしが、こんな風に嘆いていいわけがないのにね」
「リリー、どういう意味だい?」
「わたしにもよくは分からないわ。ただ、あの子にはたぶん、もうすぐ辛い日々が来ることを知っているのよ。あの子にはきっと、必ず来るのよ、そういう日が」

 イブは体をぎゅっと縮める。
 鋭い子だ。賢い子だ。リリー・エヴァンスはの友人だと名乗るものたちの中で、一番を理解しているに違いない。
 状況をよく知らないのに、これほどのことを推測し、かつそれが当たっている。
 そのせいで、しなくていい辛い思いをしているのだが。

「つまりは、辛い日々が来ることを知っていて、その日が来るまでの時間を楽しく過ごそうとしている、ってことかい?」
「少なくともわたしには、そう見えるの」
「考えすぎじゃないのかい?」
「……そうだといいとは思うけど、たぶん間違いないわ」
「…そう、か」

 ジェームズはリリーの肩を引き寄せる。
 寄り添いながら思うのは、この賢く優しい恋人の心痛に、感づいていながらも支えになれなかった辛さ。
 そして、あの風変わりな東洋人の友人の、隠されていた悩みにまったく少しも気付かず一緒に笑って、誰もが幸せであると勘違いしていた、自分の傲慢さ。
 周囲をよく見ればすぐ身近に、涙している者はたくさんいたのに、見て見ぬふりをしてきた自分の子供じみた行為。
 リリー・エヴァンスという女性を愛するようになって、ジェームズはようやく今の時代というものを正視し、未来について考えるようになった。自分の立っている位置を見て、周囲の人間を気遣えるようになった。あまりにも遅すぎる成長だと自分でも分かっているが、誰を罵ろうが変わらない事実だと割り切っている。ようは、これからだと。
 しかし、まだまだ自分は未熟であったらしい。
 リリーやという、同じ年齢の女性は、今を精一杯生きながら未来への準備をしている。泣き、考え、悩むことで、辛いことへの心の準備をし、いざそのときになったら正しい行動を起こせるように、どんな状況になっても対応できるようにと何度も頭の中でシュミレーションを繰り返して。
 ジェームズは守りたいと思う。
 リリーも。も。シリウスやリーマス、ピーター。その他、大勢の友人や大切な人たちすべてを。
 この手で守れたら良いのにと思う。

「リリー、僕を頼ってくれないか」

 ジェームズは微笑んで言った。

「頼りなくて考えなしだけど、それでも辛いときは頼ってみてくれないか。きっと必ず、全力で支えてみせるから」

 リリーも少し笑って、顔を上げた。
 は聞いていないふりをした。
 目を閉じて、そのあとのことも見なかった。








 は私服姿で、道を急いでいた。
 最近、の外出について来ない。彼女の理由を聞くと、悪戯っぽい目で「お邪魔はしたくないから」とだけ答えられた。
 あのとき赤くなってしまったのは不覚だった。
 信号機なみに分かりやすいじゃないか自分。ポーカーフェイスなんて無理な話なのは分かってるだけど。
 行き着けの例の喫茶店の扉を開く。

 リィーン

 澄んだ鈴の音から始まるこの空間が、はやはり好きだ。

「いらっしゃい」
「っちわー」

 穏やかに笑う老人に挨拶をして、店内を見渡す。
 振り返りもしない、見慣れた背中を見つける。思わず頬が緩み、自然にやけてしまうのは仕方ないだろう。

「ハロー、セブルス」
「遅いぞ」
「いやいや、これでも約束の十分前なんですがねオヤビンさん」

 ふんと鼻で笑ったスネイプは、カップの中の琥珀色の水面を傾ける。
 店内は暖かいので、彼はコートとマフラーを脱いで隣の椅子にかけていた。マフラーは、例のからのプレゼントだ。
 それに更ににやけてしまって、変質者でも見るような目でスネイプに睨みつけられ、やってきた老人に慌てて注文を言う。

「ホットココアと、おじーちゃん特性のプレーンクッキー1皿、ヨロシク」

 老人はにこにこ笑いながらそれを伝票に書きとめ、それからカチャカチャと準備を始めた。
 それを横目に、スネイプが読んでいた本をコートの上に置きながら口を開く。

「遅刻したから、今日はお前の奢りだ」
「何を言うんですかあーたは。遅刻じゃねーってぇのが分からんのですか」
「私より遅かったら遅刻も同然だ」
「どういう理屈でどういう意味ですかねそれは」
「簡単な理屈でそのままの意味だが? お前の意味不明な頭では理解できなかったのかね?」
「えーえーできませんとも。理解できないんで奢ることもできませんわねえオーホホホホ。金欠根性ナメんなコラぁ」

 奢るか奢らないかの論争を続けているうちに、ココアとクッキーが運ばれてくる。
 それでも2人が口を閉ざすことはなく、延々と会話が続いていたときだった。

 リィーン

 2人は店の扉が開く音に、ぎょっとして固まった。
 それからゆっくりと意味を噛み締めて、呆然と顔を見合わせる。
 一緒にいるところを、誰かに見られては不味いのに、誰かが店に入ってきたということ。
 店なのだから他に客が来る可能性があるのは分かっていたものの、今まで一度もそんな状況に陥ったことがなかったので、どこかで安心していたのだ。
 ホグワーツの人間でなければ良いと願いながら、2人はそうっと入ってきた人物を見た。

「いらっしゃい…って、アルバスじゃないか。久しぶりだなあ」
「おお、すまんなあ、ギル。最近ちと忙しくて、なかなか暇が取れなかったんじゃよ」
「校長職も大変だねえ。もう年なんだから、そろそろ引退したらどうだい?」
「そんなこと言わんでくれ。わしはまだまだ現役じゃよ。お前だって同い年のくせに、年とはなんじゃ年とは」
「事実だよアル」
「否定はせんがなギル」

 …。
 ……。
 ………目とか網膜とか神経とか頭とか、そういうものが正常に働いているのであれば、あれは間違いなく。

「「ダンブルドア!?」」

 隠れるのも忘れて、叫んでしまったのは不可抗力だ。
 誰だって人気のない喫茶店に世界的に有名な校長が入ってきて、店主と親しげに話してるを見たら多少は声を上げてしまうものだろう。

「おお、君たちもここの常連かね」
「は……ああ、まあ…」
「そうですけど、っていうかそうじゃなくて…」
「わしとギルは同級生でのう。昔はよく2人で、いやもう1人いたから3人じゃな…毎日のように悪戯をしたものじゃった。かれこれもう百数十年になるかのう」
「私は君と彼女を止めようとして、結局振り回されているだけだった気がするだけどね」
「ふぉっふぉっふぉ」

 もしかしてダンブルドアとこの店主が、代々受け継がれてきたらしい“悪戯仕掛け人”と呼ばれる生徒達の初代なのだろうか。
 そうだとしたら…とてつもなくタチの悪い校長だと思った。

「あの頃は楽しかったのう」
「君は今も十分楽しそうだけど」
「最近はつづく心労にめっきり白髪も増えてしまった…」
「ただ年を取っただけだよ。少しボケたんじゃない、アル?」
「……冷たいのう」

 今更慌てても見苦しいだけと、若い2人は諦めて溜息をついた。
 ダンブルドアと店主は楽しそうに話を続けている。

「ねえ、セブルス」

 はスネイプを手招きして、小声で呟いた。

「なんだかお父さんとベイルダム教授みたいだねえ」
「……まあ、似てなくもないか」

 こっちの方が大変そうで、片方は結構苦労していたようだけどな。
 スネイプが店主を気の毒そうに見遣った。
 それからハッと、彼に親近感を覚えてしまう理由に気付いた。

「おい
「ん?」
「…リチャードと教授より、あれは私たちに似ていないか?」

 沈黙。

「そうかなあ?」
「絶対そうだ」

 昔は相当振り回されていたらしいあたり(今のあしらい方からして扱い方に慣れてしまったのが見えると思う)が特に、と言えばまた面倒臭い論戦になるそうなので口には出さなかった。
 は相変わらず首をかしげながら、昔話に花を咲かせている2人の老人を見ている。
 そろそろ冷めてきた紅茶を、スネイプは一気に飲み干した。
 それから、が余所見をしている隙に、思いついたように皿からクッキーを取って食べた。
 咀嚼する音に気付いてが声を上げるのを待ちながら、こんな日が永遠につづけばなどと、くだらない上にありきたりなことを考えていた。








「寒いぃー」

 店を出た途端に首を縮めたの背中を、邪魔だとばかりにスネイプは押しのける。

「いちいち煩いなお前は」
「だって寒いんだもん」
「冬だからな」
「うんまあ、そうだね。冬だからねえー」

 万が一、知り合いに見られても言い訳ができる距離を保とうと、スネイプは普段どおりの歩調で歩く。
 しかし、はその意図に気付かず、置いていかれると思ったのか急いでスネイプの隣に並んだ。
 むっとしたスネイプは、更に歩調を速めようとする。
 その気配を感じ取ったは、思わずスネイプの腕を取った。

「……」
「……」

 不自然な沈黙が落ちたが、スネイプは無理に振りほどこうとはしなかった。
 で勢いで取ったままどうも離し難く、結局そのまま腕を組む形になった。
 離れたり追いついたりを繰り返していた一年前を思い出しながら、2人は同じ歩調で歩く。
 冷気が気にならないほど、頬が熱かった。

 別れ際、名残惜しげに手を離し、2人は距離をつくった。
 が自分の指先に、熱い息を吹きかけながら、何気なく近くの裸の木を見上げた。

「春になったら…」

 ぽつり、と呟く。
 スネイプは聞いているのか聞いていないのか、同じように上を見上げて、灰色がかった薄水色の空を意味もなく睨みつけている。
 は自分が何を言おうとしていたのか、分からなくなった。
 少し考えて、別のことを話し出す。

「春になったら、日本は桜が満開なんだ」
「桜……ああ、チェリーの?」
「さあ? わたしは詳しくないから分からないけど、日本の桜は食べられる実がなる種類って少ないんじゃにかな。あんまりそのタイプは見ない気がするよ。実がなる種類のものもたくさんあると思うけど、一部の地域以外は食用よりは観賞用がポピュラーだから。ま、とにかくさ、その花がすごく綺麗なんだよ」
「そういえば、写真で見たことがある」

 何かの写真集だったと思う。
 日本独特の形をした“城”をバックに、淡紅色の花を咲かせた木々が写っていた。
 青空との鮮やかなコントラストが思い出される。

「うちのそばの並木道も、4月ぐらいになると満開でね。その下を歩くのが、ものすごく幸せだった」

 の声が途切れた。
 それから先の話題を、考えていなかった。
 困ったように笑うのを見て、スネイプはぼんやりと家の近くの例の坂道が、そういえば並木道になってきたことを思い出した。
 あの頃、その木々は青々とした葉を、僅かな風に揺らしていただけだったが、あれが全て花を咲かせるのか。

「興味があるな」

 喋ることを思い出したかのように小さく呟くと、が目を瞬かせた。
 スネイプは口元に笑みらしきものを浮かべる。

「何年先、何十年先になるかは分からないが、いつかその辺りを案内してくれ」

 は、驚いているだけにしては長い沈黙のあと、微笑んで頷いた。
 頬に伝ってしまったものが邪魔で上手く笑えなかったような気もするが、スネイプがそれを見て可笑しそうに笑ったから、別にどうだって良かった。
 冷たい風が、一滴の水をさらっていった。















 きっと さよならと 言うことができる




















2004/11/5

 暗いなあ。もっと明るい方向にいかないのかなあ。
 これからさらに暗くなる予感ー。