感情さえなければ 失うことに 悲しみなど感じない















 カツン カツン カツン カツン
 規則的に響く、己の足音。
 この胸のように虚ろで、何の感情もなく、歩いているという事実だけを伝えている。
 今ここで立ち止まれば、歩いていたのは過去になる。
 とすれば、立ち止まっている、というのは現在になるのだろうか。
 そのまま立ち止まっていれば、もう過去を生み出すことはなくなるのだろうか。
 歩いていた、という過去形の事実だけが残されて、現在を生きていけるのだろうか。
 しかし、それは不可能なことだ。
 分かっている。
 立ち止まりつづけることなど、誰にもできはしないのだ。
 私たちは誕生した瞬間に、動く床の上に放り出された貧弱な生命体。いくら立ち止まろうと、床は動き続け、決して止まらない。
 どれほど望もうとも、時は止まらないし、戻りもしない。
 幸せな日々はいつの間にか終わり、現実的すぎる日常と微々たる変化と劇的な感情が行く先を埋め尽くしている。
 この道を行くしかない。他の道を探す力など、脆弱な自分にはとうにない。
 どれほど欲そうと、霞か何かのように掻き消えてしまったひとや、ともに過ごした時間と幸せを、もう一度取り戻すことなどできないのだ。

 己の冷たい足音は、虚ろで、何の感情もなく、生きているという事実だけを伝えている。


「スネイプ」


 呼び止められたのだと気付くのに、少し時間を要した。
 また、立ち止まるという行為を、したくなかった。
 それを聞こえていないと思ったのか、もう一度誰かが自分を呼んだ。

「スネイプ」

 今度こそ、スネイプは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
 近くに部屋も、分かれ道もなく、尾けて来たわけでもないだろうに、足音もなく彼は5歩ほど離れた場所に立っていた。
 窓から斜めに光が差し込む廊下。
 長身の男は、ちょど影になるところに佇んでいた。

「何か」

 無機質な声が、唇から零れ落ちた。
 それには驚きも、戸惑いも、悲しみさえもなかった。

「ダンブルドアから話は聞いた」

 男の手が上がり、ゆっくりとサングラスを外した。
 その行為に何か意味があったのかと問われても、答えられない。
 ただ、レンズ越しでなく、何の邪魔もなく、彼の真っ黒な虚無の瞳と向かい合わなければならない気がしたのだ。
 サングラスのフレームが、拳の中できしりと鳴った。

「ブランディバックには、会えたか」

 ベイルダムは、スネイプが彼と親しかったのを知っていた。
 エリアス・ブランディバックと、ルシウス・マルフォイ。セブルス・スネイプと、クィリナス・クィレル。
 その4人の親密さも、知っていた。
 先程、クィリナスの様子は見てきた。抜け殻のように呆然としていて、泣きはらした目は虚ろだった。
 けれど、スネイプのこの様子はどうだろう。
 淡々としているくせに、あまりにも自然すぎる動作に感じられる違和感。よくできたマリオネットを見ているような、気味の悪さ。
 そう。動きは人間であるのに、表情に生気がない。
 疲労や憔悴は見て取れるが、感情という感情が息を殺している。

「彼は、死んでいました」

 無感情という感情。
 悲しみという悲しみを、零さないように抱き締めているような。
 全て大切に抱き締めたまま、心を閉ざしてしまったのか。

「葬儀や、その後の処理は、全てダンブルドアが請け負ってくれるそうです」
「そうか」
「葬儀には私だけ行くつもりです。クィリナスは、それに耐えられないでしょうから」
「ああ」

 かけてやる言葉などない。
 彼を癒せる言葉などない。
 ベイルダムは、ただ自分の無力さを噛み締めていた。
 剥き出しのダークブルーが揺れていた。

「では、失礼します」

 スネイプは、もう用は済んだとばかりに、踵を返した。
 また、規則的な足音が響く。
 ああ。立ち止まっていたことさえも、過去になってしまった。


「彼女は、医務室にいる」


 歩調が乱れることはなかった。
 表情も動かず、ただ一度瞬きをしただけだった。





 リディウス・ベイルダムは、人の死に慣れていた。
 実際、たくさんの人が死んだ。
 彼は孤児だった。両親は彼が3歳のころに、死んだ。
 それから、孤児院でリチャード・という少年と出会った。
 彼と過ごすうちに、まずひとり、友人が死んだ。リチャードの父と、その一味が手を下した。
 リチャードは泣かなかった。泣いてはいけないのだと言っていた。
 それから、たくさんの知り合いが、友人が、彼の父によって殺された。
 教師が死んだこともあった。
 友人と呼べるほど親密な関係にあった人々は、もうほとんどが死んでしまった。
 ベイルダムは、誰との間にも一線を引き、それ以上友人をつくることはしなかった。
 十数年の間にも、次々と知り合いは死んでいった。
 教職に就いて、たくさんの生徒と出会った。そしてたくさんの生徒が死んだ。
 離れていた唯一の親友も、あと4年後には死ぬと言う。

 しかし、それでも。
 どれだけ慣れていようとも。

 死が苦痛であることに、変わりはなかった。

「俺たちはどれだけ」

 もう涙も出ないのに。

「大切なものを失えば、幸せになれると言うんだ」








 寝巻きから制服に着替えて、はベッドにぼんやりと腰掛けていた。
 先程、マダム・ポンフリーが目を充血させて帰って来た。一目で、泣いていたのだと分かる。
 途切れ途切れに零れた言葉から、憔悴しきったクィリナス・クィレルという男子生徒の相手をしてきたところらしい。
 不可思議な夢の対話によって、だけは当に知っていた、エリアス・ブランディバックの死のこと。
 そして。
 零れ落ちた名前。

「2人で、エリアスを、嗚呼……クィリナスと…セブルス…スネイプ……わたしは…も…耐えられ、な…」

 そう、か。
 セブルスも、彼に会いに行ったのか。
 どうするだろう。
 友に手を下した男の孫を、今までと同じように扱えるだろうか。
 否。同じようにでなくていい。
 わたしはただ、嫌われたくないだけだ。

 不安な気持ちに、何かもどかしさや苛立ちに似た痛みを覚えて、左胸に手を当てた。
 異物感に気付き、胸ポケットを探る。
 出てきたのは、ハロウィンに彼からもらった、オレンジ色の飴だった。
 一瞬躊躇ったあと、両端をねじっただけの包み紙を取り、乾いたオレンジ色を口の中に放り込んだ。
 口の中の飴玉が、歯にぶつかってころりと鳴った。

 なぜだか少し、泣きたくなった。

 口の中でゆるゆると飴は溶けていく。
 同時に少しずつ、不安な気持ちも溶けていくのを感じた。
 たぶん気のせいではなく、何かの魔法がかかっているのだろう。
 胸の痛みが、落ち着いてくる。

 弱いなあ、わたしは。
 少しでも気を抜いたら、彼にすがってしまいそうだ。
 さっき、エリアスという彼の友人と、約束してきたばかりだと言うのに。

 口の中のそれが、もういつでも噛み砕けるほどに、薄っぺらなものになったころ。
 廊下から静かな、規則的な足音が聞こえてきた。

 誰の足音なのか、一瞬で分かってしまった。








 医務室のドアを開いた。
 気配を探り、マダム・ポンフリーの留守を確かめる。
 するりと部屋に入り、後ろ手に、音を立てないようドアを閉めた。

 一体、私は何をしているのだろう。

 そんな問いがふつりと湧き上がったが、勿論答えなどなく。
 否。あるけれどそれは、言葉にできるほど簡単なものではない。
 あえて言うならば、会いたかったのだ。ただ。

?」

 名を呼んだ。
 返事は―――ない。
 歩を進めると、きしり、とベッドのスプリングが揺れる音が聞こえた。
 一番奥だ。

 は眠っていた。
 毛布を首元までしっかりとかぶっている。

 そっと、額に手を当ててみた。
 熱はない。
 体調は、もう安心して良いのだろう。
 ついでに、頬にかかった黒髪を、そっと払いのけてやった。
 ぴくり、と一瞬身動きしたが、起きる気配はない。

 窓から、外が見えた。
 真っ白な庭が見えた。
 空はいつの間にか、憎らしいほどに晴れ渡っていた。



 小さく、小さく、名前を呼んだ。
 それは半ば、独り言のようだった。
 きちんと音になっていたかさえも、さだかではない。

 静かな寝顔を見ていると、エリアスの死に顔を思い出した。
 彼もまた、眠っているようだった。
 蒼白な肌。血が滲む唇。乱れた髪。あちこちに散らばる、打撲、火傷、切傷。
 ふと、一瞬の睫毛が震えた。
 しかし、起きない。

 ああでも、は生きている。

 突然、どっとたくさんの感情が、喉までせり上がってきた。
 さきほどまでの虚無が嘘のように、1つ1つが巨大で数え切れないほどのそれ。人間とはこれほどたくさんの感情を持っていたのだろうか。
 
 自分でさえどうすることもできない無感情という壁を、特に何をするわけでなく、簡単に退けてしまう存在。
 それは果たして忌むべき者だろうか。
 答えは決まっている。
 たとえ、その親の親が、忌むべき者であったとしても。
 気が付けば、スネイプは。

 そっと、ベッドに手をついて。

 スプリングが、ぎしりと鳴った。








 甘い。









 カツン カツン カツン カツン

 ポンフリーは、テンポの早い足音に顔を上げた。
 俯き加減に顔を隠して、急ぎ足で横を通り過ぎていった青年のネクタイは、確かに緑と銀のストライプだった。
 それに長めの黒髪を、後ろで束ねているのには見覚えがある。

 先程まで、突然の友人の死に、全く生気の見られなかった男子生徒。
 それが、どうだろう。
 今の彼は、俯いていてはっきりと表情を見ることはできなかったけれども、耳や首までのぼせたように真っ赤だった。

 一体、何があったのだろう。

 なんにせよそれは喜ぶべきことだろう。
 自分も落ち込んでばかりはいられないと、少し微笑んで医務室へと向かった。

「あら、まだいたの?」

 制服姿でベッドに座っている少女を見つけて、ポンフリーは少し目を瞠った。
 しかし、は答えない。
 頬も耳も首も、肌という肌すべてを真っ赤に染めて、両手を口元に当てたまま硬直している。
 スネイプといい、といい、一体どうしたのだろう。
 首を捻ったポンフリーの耳に、の小さな呟きが届いた。

「マダム……わたし…死にそう」















 感情がなければ いとおしくなど 思えない




















2004/9/21

 せいしゅんだってばさー。