後悔はしていないけれど 気付くと、真っ白な世界に立っていた。 360度、どこまでも白い。上も下もない。全てが白だった。 どうやって立っているのか、分からない。 服は、医務室のベッドに入っていたときと同じ、見慣れた寝巻きだ。 夢なのだと、納得した。 窓の外を見ているうちに、突然眠くなって、また温かな毛布の中にもぐりこんだことを覚えている。 しかし、随分リアルな夢だ。 「こんにちは、君」 突然、背後から声をかけられて、は勢い良く振り返った。 にこにこと笑っている、男が立っていた。 確かに、辺りを見回したときにはいなかったはずだ。 しかしこれは夢だから、人が突然湧いて出たとか、全然気配がないとか、そういう違和感は無視するべきなのだろう。 実際、この白の世界からして、異常なのだから。 「はじめましてですね」 「あ、えっと、どうも。はじめまして」 丁寧な物腰で、男は一般的な挨拶を口にする。 極自然に差し出そうとした手を、「あ、これはだめだった」と言って下ろした。 は首を傾げる。握手の何がいけないのだろうか。 「突然こんなところに連れてきてすみません。失礼だとは思ったんですが、他に手段がないらしくて」 「はあ」 男は何かしきりに残念そうに、うんうんと頷いているが、には何を言っているのかさっぱり分からない。 それから男は何かに気付いたようにハッとして、慌てたように辺りを見回した。 「突っ立ったままでも何ですよね。ええと、取りあえず座って話をしましょう。うん、それがいいです」 そう言って突然よっこらせと腰を折り、何もない白の空間に腰を下ろした。 傍目には空気椅子でもやっているようにしか見えないが、どうもそこには何かあるらしい。 どうぞと勧められ、が怖々手で探ると、確かに自分の後ろにも見えない長方形の何かがあった。高さも丁度良い。 夢ってすごいなあ、なんて感心しつつ座る。 固いのかと思えば、すわり心地も抜群だ。談話室のソファに似ている。 「あの…」 は声をかけてみる。 男はにこっと笑って、「はい何でしょう」と返事をした。 は、あの無愛想男に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいなあ、と思った。 ここで爪の垢でも貰って、今度薬学の合同授業で鍋に放り込んでみるのはどうだろう。 あ、でもこれ夢だから無理か。 「これ、夢ですよね?」 「はい、夢ですよ」 さらりと返されて、は困ったようなほっとしたような残念のような、複雑な顔をしてみせた。 男はその顔に吹き出しそうになるのを堪えて、ただふふっと笑った。 「すみません。詳しいことは話さないと契約したので、話せる範囲が狭くて。僕に言えるのは、ただこれは夢でここは“どこでもない場所”で、僕はもう君の世界では存在していない人間だということだけです」 「そう…ですか」 曖昧な話だが、一番困っているのは話している男自身のようなので、はただ頷いた。 夢は夢で、それ以外の何者でもないのだ。 それに疑問を抱いてはいけないような気がする。 「今日ここに君を呼んだのは、君に僕の大切な友人のことを頼みたかったからです」 にっこりと笑うと、誰かに似ている気がした。 そういえばこの人、どこかで見たことがある。どこだったっけ。 彼の笑顔は穏やかで、見ているこちらの頬まで緩んだ。 和やかなムードの元、見つめあいにこにこと微笑む合う2人。 「僕には君の世界に、大事な友人が何人もいるんです。最後の最後まで、どうしても憎むことのできなかった親友も1人いてね。性悪だし腹黒だし気位は高いしで、いや〜な感じの奴なんだけど、僕そいつだけはどうしても憎めませんでした。なんでかな、自分でも分からない。……あ、君にあいつは関係なかったんだ。そうそう、君に頼みたいのは、別の友人のことですよ」 照れくさそうに笑う、その笑顔は少しだけ悲しげだった。 は一瞬、その親友の話を聞きたくなったが、それをぐっと堪えた。 たぶん自分では、どうにもできない話だ。 たとえこれが夢でも。 「年下の後輩なんですけど、これがまた厄介な性格をしてるんです。そう…少し僕の馬鹿な親友に似てるかな。だけどあの子は、きっと完全に闇に染まることはないと思うんです」 今までにない、真剣な瞳。 モスグリーンの瞳の奥に、深い悲しみと、優しさと、…何かが掠めたように思う。 彼は少し前かがみになり、両手の指を膝と膝の間の空間あたりで、軽く絡めた。 は思わず座りなおし、姿勢を正した。 「彼にも僕のように、大切な親友がいます。親友の方は優しくも脆い心の持ち主ですが、それでも闇に堕ちるのを拒否するでしょう。けれど、彼は優しく強いからこそ、大切なものたちを傷つけないために、自分を犠牲にしようとするはずです。僕はそれを止めたいけれど、止めれば悲惨な結果になることも分かる。それは、君にも分かりますね?」 「…はい」 誰のことを言っているのか、にはもう予想がついていた。 けれど彼はわざと、名を出していないように思ったから、それを口には出さなかった。 「彼は…君のことも大切に思っています。親友に向ける感情とは、別のものを持って、ね。だから、いつかは君からも離れようとするでしょう」 「…」 知っていた。 いつかは、生きているのに二度と会えなくなる日が来ること。 知っていたけれど、気付かないふりをしてきた。 は俯いて、じっと自分の手を睨んだ。 「僕は無力です。結局、最後まで誰も救うことができなかった。自分さえも守れなかった。だから、彼から離れないでとか、彼を助けてくれとか、そんなことを言う資格なんてない。でも、1つだけ言わせてください。友人を思う無力な男の戯言だと思って構わない。ただ」 白い世界。 まっさらなこの世界で、この男は混じりけのない正直な気持ちを言葉にしていた。 白の果てよりもさらに向こうを見ている、そのモスグリーンの瞳には、何が映っているのだろう。 優しい目をしていた。 「彼と別れる、その日まででも良い。これからたくさん辛いことや悲しいことがあって、彼が闇の底へと堕ちてしまっても、君だけは彼に手を差し伸べていてください。どれだけ彼がその手を拒絶しようと、その手に爪を立て傷つけようと、決してその手を引っ込めないで。その手を取るか取らないかは僕には分からないけど、きっとその手があるかないかでは、たくさんのことが違ってくるでしょう」 君には辛いことです。 手を差し伸べ続けるのは、ときに苦痛です。 男の声は静かだ。 小さな波紋が広がって、やんわりとを包むように、柔らかい音だった。 「助けてなんて言わないから」 そうだ。 こういう声をする人を、わたしは知っている。 はぎゅっと、拳を握り締めた。 死の話をする、父親の声に似ていた。 「どうか、彼を見捨てないでください」 生への、切望と懇願。 柔らかな呪縛。 痛みと涙で構成された、契約。 「わたしにできるでしょうか」 長い沈黙のあと、は呟いた。 片手を握ったり、開いたりしてみせる。 「わたしも無力です。きっとあなたよりも。それでも、こんな無力なわたしに、それができるでしょうか」 この手はこんなにも小さいのに。 きっと救いになどならない。支える力さえもない。 いつも助けられてばかりだ。 それでも。 「できますよ、君なら」 こともなげにそう言って、にっこりと笑った。 本当によく笑う人だ。 も、強張った頬を無理矢理動かして、ぎこちなく笑った。 男が立ち上がった。 残念そうに眉尻を下げて、 「そろそろ時間のようです」 と言った。 男は、すっと、迷いなく右手を差し出す。 「彼をよろしく頼みます、・君」 は小さく、しっかりと頷いた。 「あなたと話ができて良かったです……エリアス・ブランディバックさん」 は男の手をしっかりと握った。 男は驚いた顔をして、それから、ゆっくりと照れくさそうに笑ったのが見えた。 目が覚めた。 医務室のベッドだった。 「ありがとう」 きっと届かないだろうけれど、は呟いた。 あの美しいモスグリーンが、頭を離れない。 最後に握った彼の手は、死人のように冷たかった。 残す人々のことだけが 気がかりだった 2004/09/14 |