我々は痛みを訴えている 我々は救いを求めている















 クィリナス・クィレルは、同室の不器用な友人が、自ら進んで目覚め、低血圧の不機嫌さも無視して出掛けたことに気付いていた。
 珍しいことこの上ない出来事ではあるが、クィリナスは理由を推測し、毛布の中で密かににやりと笑った。
 最近、セブルス・スネイプに変化が見られる。
 特に夏休みが終わってからの変化は著しい。
 最も近くにいる自分でしか気付き得ない些細な変化だったが、それはスネイプという男にとって、大きな変化だっただろう。
 見ているこちらの方が鬱陶しかった長い髪を、適当にでも結うようになった。
 しかも意味ありげに、同じ髪紐を大切に使っているようだ。
 味覚にも変化が見られる。今まではテーブルに出ても絶対に手を出さなかった、ケーキやパイ類を齧るようになった。
 紅茶を好むのは変わっていないものの、ジュースを邪険にすることもなくなった。

 スネイプ専用のこの観察眼について、「まるで恋人の浮気に敏感な女か、新手のストーカーのようだ」と笑っていたのは誰だったか。確か、数年前に卒業した、エリアスだったと思う。
 その時クィリナスは赤面と照れ笑いを隠そうとしながらも、相違点を挙げた。
 「確かに行動パターンは似てますけど、僕はセブルスに変化があった方が、嬉しいんですよ」と。
 エリアスは「セブルス・スネイプ君に変化ですかぁ……うわあ、望み薄ですね」と言って、のんびりと笑った。
 クィリナスも苦笑しながら、まったくだと頷いたのだが。
 それがどうだろう。
 先日のハロウィンなどは、真面目な顔をして「菓子が欲しいか」と尋ねられた。

  と、突然どうしたの、セブルス?
  もうすぐハロウィンだ。たまにはいいだろう。
  へえ…ああ、成る程。
  何が成る程なんだ。ひとりで納得するんじゃない。…それよりいるのかいらないのかはっきりしろ。
  勿論、くれたら嬉しいよ。
  じゃあ、あれだな。ホグズミートに行かねばならんな。
  うん? そうだね。
  よし付き合え。
  ええ?
  別に予定はないな。よし。明日はホグズミートに行くぞ。菓子屋なんぞ知らんから案内も頼む。
  …強引だなあ。

 クィリナスはあのときの会話を思い出して、くすくすと笑った。
 長く悩んだわりに買っていたのは、飴玉数個と普通の板チョコだった。
 とすると、部屋で板チョコの半分をぐいと渡され、彼もぱりぱりと食べていたところからして、「彼女」にあげたのは飴玉だろうか。
 そう。「彼女」だ。
 セブルス・スネイプを変えた人物は女性だと、クィリナスは思う。
 クィリナスはクィリナスなりに、色々考えた結果、辿り着いた答えはひとつ。


 セブルス・スネイプは、どこかで誰かに恋をしたのじゃないか。


 未だ推測の域を超えていないが、クィリナスは彼の変化についての解答として、これにほぼ確信に近いものを持っている。

 馬鹿だなあ、セブルスは。
 ひとこと言葉にすれば、ハロウィンのお菓子だって、今日の買い物だって、相談に乗ってあげたのに。

 思い出し笑いをしながら、クィリナス・クィレルはそっと寮を出た。
 ホグズミートに出て、偶然ばったり出くわした風を装いながら、彼の慌てる様子を観察したって罰は当たらないだろう。
 うきうきとして笑みのこぼれる口元を隠そうと、きつく巻いたマフラーを引き上げる。
 寒い廊下を早足に歩いた。

 医務室の前を過ぎて、外へと向かう。








 医務室では、ベッドの中のがぼんやり窓の外を眺めていた。
 余程疲れが溜まっていたのだろう。
 5人の友人たちが帰って行ったあと、はまた熱を出した。
 高熱というほどのものでもなかったが、マダム・ポンフリーはあと一日、医務室で安静にするよう言い渡した。
 あんなに外に出たがっていたが、嫌な顔ひとつせず素直に頷いたことに、マダムは首を捻ったが、好都合には違いない。特に気にしなかった。

 は窓の外の景色を見ていた。
 何の変哲もない、穢れなき純白の大地が見えた。
 空は相変わらず、どんよりと重い雲に覆われていた。
 それでも、寒いと思うことはなかった。先日のように指先が麻痺することもなく、息が白くなることもない。
 十分に、この医務室が温かいからだ。

 でも、ここには。

 差し伸べられる、温かくて大きい手はなかった。

「弱いなあ、わたし」

 小さく掠れた声で呟いた。
 窓の外では、ちらちらと雪が舞い始めている。

 わたしはなんて無力なんだろう。


 あの手の温もりに、こんなにも縋って生きてる。








「クィリナス!」

 外の空気にぶるりと震えたところで、呼び止められた。
 切羽詰った響きに、クィリナスはびくりと驚いて声のした方向に振り返る。

「…セブルス?」

 クィリナスは驚きに目を瞠って、箒に跨り3メートルほど上を浮遊している友を見上げた。
 スネイプはマフラーもしているし、冬用の厚いローブも着ているというのに、今にも倒れてしまいそうなほど真青だった。
 しかしぎゅっと真一文字に結ばれた唇が、何か強い意思を感じさせる。

「セブルス、一体…」
「来い、クィリナス。私はこれから…エリアスの家に行く」
「え?」

 スネイプはクィリナスの顔の辺りで、ゆらゆらと視線を彷徨わせながら、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
 悲壮感。絶望感。虚無感。喪失感。…。
 痛みを伴う感情が全てが、スネイプの胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
 ごちゃ混ぜになって、何が何だか分からない。
 ただ、ざわざわと不快な感情が胸を抉り掻きむしり、同時に焦りが込み上げてくる。

「エリアスが…」

 先を続けられなかった。
 クィリナスは見る間に顔を青くさせ、全ての色を失くしたように呆然とした。

「クィリナス、来い。…行こう。…ルシウスの代わりに、私たちが彼の元に行こう」

 スネイプは泣いていなかった。
 クィリナスも泣かなかった。
 何が起こっているのか、本当は2人とも、理解できずにいた。
 ただ。
 怖かった。

「アクシオ!」

 震える手で杖を取り出し、クィリナスが叫ぶように呪文を唱えると、5秒としないうちに箒が飛んできた。
 さっと跨ると、スネイプに向かって頷いてみせる。
 2人は同時に空へ舞い上がろうとした。
 すると。

「夜になるまでに、帰って来なさい」

 聞きなれた声にぎょっとして振り返ると、先程までクィリナスが立っていたところに、いつの間にか老人が立っていた。
 長く白い髭。特徴的な眼鏡。底知れない青い瞳。

「校長先生」

 呟いたのは、どちらだったか。
 ダンブルドアは全てを知っているのか、何よりその内面を物語る優しい瞳が、悲しみに沈んでいた。
 けれど涙はない。

「行きなさい。わしが許可しよう」

 我に返ったスネイプが頷いた。
 クィリナスがしゃんと背筋を伸ばす。

「「はい」」

 返事をしたのは、2人だった。



 上空の空気は切るように冷たく、手も体も凍えた。
 何より心が、冷え切っていた。



 もうすぐだ。
 上空から、スネイプはエリアスの家を探す。
 ブランディバック家は、マルフォイ家やブラック家ほど有名ではなかったが、純血主義の一族であることは間違いなかった。
 スネイプも、ブランディバックとは、どこかの分家らしいと聞いている。そのせいか、エリアスの家は豪邸と言うには小さく、平均的と言うには大きい邸宅だった。
 エリアスは、「ルシウスの家に比べれば、鳥の巣箱みたいなものですよ」と言っていた。
 その後「当然だ」と鼻で笑うルシウスににっこりと笑って、「あ、でも僕は満足してますし、快適っていう点ではマルフォイ家にも負けませんよ」と付け加えたが。

 前に一度、クィリナスと2人で家に招待されたことがあった。13の夏休みだった。
 行けばにこにこといつもの笑顔が迎えてくれた。そのとき病弱な母親と2人で住んでいることを知った。父親は早くに他界したらしい。
 エリアスと一緒に、くつろいだ様子のルシウスもいた。厳しい両親には学友の家で勉強をするのだと言って来たらしく、少し照れくさそうに笑っていた。
 4人で料理をした。
 エリアスは手慣れていて、自分に振り分けられた仕事を手早く終えて、後輩2人の手伝いをしてくれた。
 スネイプは薬学実験の容量で手際よくこなしていたが、クィリナスはひどく悪戦苦闘していた。包丁を持つ手が危なっかしい。
 ルシウスも、魔法ですれば良いのになどと、ぶつぶつ文句を言いながらやっていた。…クィリナスより酷かった。
 大笑いするエリアス。楽しそうなクィリナス。黙々と、着実に作業をこなすスネイプ。笑うエリアスを顔を赤くして怒るルシウス。楽しげな賑やかさに、エリアスによく似た笑みを浮かべた、痩せたブランディバック夫人も顔を出した。
 5人で食卓を囲み、料理について批評し合い(エリアスと夫人、クィリナスはとにかく褒め続け、スネイプとルシウスは自分のつくったもの以外を貶し続ける)、笑いながら楽しく過ごした。

 楽しかった。
 本当に幸せだった。
 今エリアスのことで思い出せる記憶と言えば、何故だろう、そんな幸せなものばかりだ。
 過去の幸せが、酷く痛かった。

「…セブ、ルス」

 クィリナスの声に我に返った。
 色を失った友人の細い指が、すっと地上を指した。

「あれ」

 声が震えていたのは、決して、絶対に、寒さのせいだけではなかった。

 エリアス曰く鳥の巣箱程度の、豪邸と言うには小さく平均的と言うには大きい邸宅。
 柔らかいブラウンの屋根が、エメラルド色の光が照らされて、不気味にな色をつくりだしていた。
 屋根の上には、不気味にゆらゆらと点滅する巨大なマークが浮かんでいる。
 髑髏の口や目の虚ろな穴を、舌のような蛇が這っている。


 闇の印


 気が付けば、2人は家の中にいた。
 どこに降り、どこに箒を置き、いつ入ったのかは、覚えていない。
 さして重要なことでもなかった。

「おい、お前達は誰だ? どうしてこんなところにいる!」

 誰かが話しかけてきた気がする。
 しかしスネイプの朦朧とした意識では、その言葉は耳に入っても、意味を理解するまでには至らなかった。
 肩を強く掴まれ、揺さぶられる。
 それでもスネイプは、廊下の先を見ていた。

 リビングか、彼の部屋に行けば良い。
 きっと彼は、いつもの笑みを浮かべているに違いない。

「おい! 聞いているのか!?」
「やめろ、アラスター」
「しかし!」
「その子たちはホグワーツ生だ。先程ダンブルドアから連絡があった」

 スネイプより先に、居間へと足を踏み入れたクィリナスの悲鳴が、耳をつんざいた。
 だっと駆け出して、無意識にクィリナスを探す。

 居間は悲惨な有様だった。
 小奇麗で、趣味の良いアンティークなどが飾られていたのに、今は見る影もない。
 激しく抵抗したらしく、床一杯に物が散乱していた。

 跪く、後姿が見えた。
 倒れ伏す男が見えた。
 親友は膝をつき、倒れた男を抱き締めて、天を仰ぐように叫んでいた。
 叫びは、言葉よりも深い意味を持って、スネイプの耳に届いた。

 エリアスの死に顔は穏やかだった。
 しっかりと握った杖と、あちこちにある生々しい傷が、抵抗したことを表していた。
 それでも眠っているようにしか見えない。ルシウスに寄りかかって居眠りしていたときの、無邪気な寝顔と寸分違わなかった。

 スネイプは、エリアスを間に挟むようにしてクィリナスを抱き締めた。
 エリアスのだらりと垂れた手が、物悲しかった。

 クィリナスは声が嗄れるまで泣き叫び続けていた。
 スネイプはただその目に、エリアスの死に顔を焼きつけ、思い出ばかりを探っていた。


「しかしあの子たちは、どうして知ったのですか。今朝、通報があったばかりなのに」
「いいんだ、アラスター。そんなことは、もうどうだっていいんだ」
「ですがっ」
「あの子たちをこれ以上苦しめる権利など、我々闇払いにだってありはしないのだよ」
「…」
「あの子たちは悲しんでいる。それだけで十分なんだ」


 スネイプはどうしても、涙を流すことができなかった。
 その必要性も特に感じることはなく、もう二度と開くことのない美しいモスグリーンの瞳を、ぼんやりと思い描いていた。

「すまない、エリアス」

 クィリナスの叫びにかき消され、呟きは誰にも聞こえない。
 これほどまでに、痛みを訴えているのに。

「すまない、エリアス。それでも私は、これ以上の犠牲を望まないから」

 もう、無意味な犠牲などいらない。

 そうだろう?

 友よ。

 ならば、進むべき道は1つしか残されてはいないだろう?


「私はルシウスと共に堕ちよう」

 彼を独りにはしない。

 どこまでも。

 どこまでも、共に。



 握った手に命の温もりはなかった。

 死の冷たさがその手を伝い、体中に流れて込んでくる気がした。

 紅い瞳の女の手の温もりが、遠い過去のような気がした。















 ここから助けてくれ この底なしの孔から 神よ 闇よ 嗚呼 誰か たすけて




















2004/9/13

 シリアス目指して撃沈です。
 失くす痛みやら悲しみやらを表したいのに、どうしてこんなに言葉が足りないんだろう。
 ちょっと落ち込むぐらい、何も表せてない気がするなぁ…。
 いつかもっとちゃんと書き直したい!(無理矢理ポジティブに変換)