必ずやってくる それは 分かりきっていること















 やはり私は馬鹿なのだろうか。

 真剣な顔をして、スネイプは一人考えていた。
 いつもの階段のいつもの位置に、当然のごとく座っているそのスリザリン生。襟元の緑と銀のストライプが、天窓から差し込む、黄身を帯びた光に淡く染まる。傍らには、今の今まで少年の手の中にあり、つい先程読み終えたばかりの本が一冊、無造作に置かれている。昨日、雪の中で転がっていた少女から預かった、図書館の本である。
 本を読み終えた彼は、陽光の色の変化に苛立ちを見せ、眉を寄せ俯き加減に虚空を睨んでいる。

 確かに、昨日ここで落ち合うことを提案したとき、「いつ」なのかを言い忘れた自分にも落ち度はある。
 だがその事実に気付いても、特に重視しなかったのは、普段からいつもこうだからだ。大体、2人共に時間が空いているのは、ほとんどの授業が終わった、夕暮れ時だけだからである。
 だからまたいつものように待っていた。
 暇を持て余して、特に興味のないその本に目を通して、待つ。
 スネイプは自分が、1つのことに集中すると周りが見えなくなる種の人間であることは、よく分かっているつもりだ。
 だがそれにしても、話しかけられれば意識は浮上する。
 つまり、読み終えて凝った首を回したときも、まだは来ていなかったのだ。

 私は馬鹿か。
 何故あのとき何時に来いとハッキリ言わなかったんだ。
 これではいつもに運ばせている、あのいい加減なメモに文句を言う資格もない。

 しかし何だろう、この苛々は。
 ただ約束の時間に来ないから、というだけではない。私は。…私は。
 ―――何かを、恐れている?
 馬鹿な! 何を恐れると言うんだ。
 あの女はあまりにも馬鹿すぎて、昨日の約束を忘れてしまった。そして、いつまで待っても来ない、そのことに私は苛ついている。
 たったそれだけのこと。恐れではない。これは怒りだ。怒りなんだ。

 スネイプはぐっと拳に力を入れる。
 唐突に、冷たさと温もりと、あの感触が蘇り、狼狽する。
 たった2度だけ、あの小さな手を握ったことがある。温度は違ったものの、大きさは変わらない。
 小さかった。
 とても小さかった。
 いくら普段強がっていても、ただの16の少女なのだと。

 そう、私は恐れているんだ。
 彼女が意図的に、やって来ないのではないかと、危惧しているのだ。
 もう、私との友情を、ここで破棄しまおうとしているのでは。
 私との関係を、なかったことにしようとしているのでは。

 そんな女でないことぐらいは知っている。
 そうしたいのならば、ならはっきり口に出すだろう。それが一番、相手を傷つけないと知っているからだ。
 だが知っているのと、理解っているのとでは違うのだ。
 彼女がここにやってこない限り、頭の隅に巣食うその不安を、拭うことができない。
 否。例え約束どおりここにやって来たとしても、いつかは必ずやってくる別れに、私は不安を抱くだろう。

 私は、終わりが来ることを、恐れている。
 必ずいつかはやってくる、その別れを。

 溜息を飲み込んだところで、静けさを叩き割るようなベルの音を耳にした。
 タイムリミットだ。
 スネイプは不機嫌に立ち上がり、不機嫌に立ち去った。
 己の内に見出した、知りたくもなかった不安の正体を、他の感情で覆い隠そうとするように。
 さて次に会ったとき、どう厭味を言ってやろう。どう叱ってやろう。
 と。

「セブルス」

 僅かな重みが肩に乗り、耳元で名を囁かれる。
 一瞬、驚きに大きく体を揺らしたことを後悔したが、彼女は平気そうだ。



 スネイプは眉を寄せた。
 怒りや嫌悪からではない。怪訝と心配と、不安の入り混じる顔である。
 彼女が来たということは、は約束を忘れていなかったのだ。つまりは、伝言を?

「何か、あったのか?」

 自分でも驚くほど、しっかりとした声が出た。
 震えなくて、本当に良かったと思う。
 だが、思慮深いその黄金色の目に見つめられると、全て見通されているような気がするが、どうなのだろう。
 彼女はどうやら人間より遥かに長く生きているようだから、あながち間違いではないかもしれない。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あの子があなたとの約束を忘れるはずがないじゃない。ただ今日、どうも調子が悪くて。今思えば昨日外に出て雪で遊んで、ずぶ濡れで帰ってきたのが悪かったんでしょうけど。それでもあの子、授業サボるの嫌がってね。飛行術はないから大丈夫だ、って言って聞かなくて、一日頑張ってたのよ」

 スネイプは片手を目元に当てた。
 大体、分かってきた。
 とすると、自分の不安は杞憂だったわけだが、なんだか自分が情けなくなって、に対して怒りさえ湧いてくる。

「で、案の定、最後の授業の途中で倒れちゃって。まあ、あそこまで頑張ったのは偉いと思うけど」
「何が偉いんだ、あの馬鹿め。糞っ。人がどれだけ待ったと思ってるんだ、赤目女。無理はするなと常々言ってあると言うのに、学習能力というものを微塵も持ち合わせていないらしいな。ああ、そうか。そんなものを奴に期待する私が馬鹿なのか。私が馬鹿なら、奴は大馬鹿で糞間抜けの鈍感だ。自虐癖でもあるんじゃないのか」

 腹が立ってきた。
 は少し驚いたようにして、宥めるようにスネイプの頬に触れる。

「…ま、まあそんなに怒らないでちょうだいな。あの子、今日ここであなたと待ち合わせしてるからこそ、授業を休まなかったのよ。授業休んだのに出歩いたら、サボりになっちゃうからね」
「…………どうしようもない馬鹿だな。本当に」

 自分も、も。
 分かりきっていることなのに、それにはいつも呆れさせられる。
 大きく1つ、溜息を吐いた。

「分かった。わざわざすまない」
「いいのよ、気にしないで。あたしはずっとの傍についておくから、あなたは明日にでも医務室に来てちょうだい。丁度明日は休日だから、マダムも寝てなさいって言ってるの」
「ああ。暇があったらな」

 無造作に束ねた髪の隙間から、ぽりぽりと頭を掻いた。
 不機嫌の名残がある憮然とした表情に、は小さく笑う。
 今頃は、医務室で不安そうに丸まっていることだろう。
 医務室に運ばれて、ベッドの上で目を覚ましたときの慌てぶりと言ったらもう、周りに人さえいなければは楽しさのあまり笑っていたに違いない。
 安堵しているリリーに慌てて時間を聞いて、約束の時間がとっく過ぎてしまったことを知るとパニックを起こしていた。
 リリーとマダムが止めなかったら、風邪も熱も無視して、階段に走り出していただろう。
 はそのときのことを思い出して、くつくつと笑った。
 スネイプが怪訝そうに、肩の黒猫を見ている。
 は前触れもなくひょいと飛び降りて、下からスネイプにニッと笑いかけた。

「そうそう、から伝言よ。あなたが怒ってるって慌てててね。『ごめんなさい。埋め合わせは必ずするから、許して!』ですって」
「…高くつくぞと伝えておけ」

 スネイプは唇の端を軽く吊り上げる。
 猫はくすくすと笑った。

「じゃあ、またね。スリザリンの坊や」
「…ああ」

 返事を返すか返さないかの内に、するりとは角を曲がって姿を消した。
 グリフィンドールの気高き黒豹。
 否。
 スネイプは小さく笑った。
 馬鹿女の飼い猫兼保護者、か。










 は物音に目を覚ました。
 朝だ。
 昨日、がスネイプに伝言を伝えたことと、返ってきた返事に安堵したところまでは覚えている。
 それから、どうやら安堵のあまり、そのまま眠ってしまったらしい。
 さて、目を覚ました原因の、物音の発信源はどこだろう。
 何か音がしたことは分かっているのに、何の音だったのか、どんな音だったのかは覚えていない。
 しっかり覚醒するまえに、余韻さえも消えてしまった。そんな感じだ。
 しばらく考えて、耳を澄ませる。
 そして、やっと合点がいった。
 足音だ。
 遠くから近づいてくる、複数の足音。4人……否、5人か。

 数人の足音は、医務室の前でパタリと止む。
 話し声がする。
 どうやら「寝ていたら悪い」だとか、「女性の寝顔を見るなんて」だとか、小声で話し合っているらしい。
 にはもう、それらが誰だか分かっていた。無意識に、口元が緩む。
 5人の気配には、隣室のマダム・ポンフリーも気付いているだろう。それでも出て来ないところを見ると、見逃してくれるらしい。
 彼女は元来、優しいひとだ。
 心の中で感謝と謝罪を述べて、は上半身を起こした。

 まず初めに顔を覗かせたのは、大親友のリリーだった。

、起きてる?」
「うん。おはよう、リリー。みんなも入っていいよ」

 にこっと笑いかけると、リリーはするりと中に入ってきた。
 続いたのがリーマスで、その後にピーター、シリウス、ジェームズが順に入ってくる。

「見舞いに来てやったぜ。調子はどうなんだよ?」

 シリウスが覗き込むようにして問う。
 ちょっと近すぎだろ、と思うが特に動揺はしない。
 これでも去年まではこの顔だけは良い男に、恋心らしきものを抱えていたはずなのである。
 だがいくら顔が整っていようが、ときめくとか、ずきゅんだとか、どきゅんだとか、そういうアクションを心臓が起こす様子は微塵もなく、やはり恋ではなかったのかなと首を捻る。
 とにかく至近距離にシリウスの顔があった。

「授業中に倒れるから、僕とても心配してたんだよ」

 何気ない風を装って、リーマスがから親友を引っぺがした。
 とても自然な動作に見えたが、シリウスが勢い良く隣のベッドに尻をつくほどの乱暴さである。
 柔らかい微笑みを浮かべて、の肩を抱くようにしているリリーの隣に腰を下ろす。

「熱はない? 体の調子は?」
「みんな心配性だなあ。大丈夫だよー。夢見ることもなく、ぐうぅーっすり寝たし。ほんとは今日から復帰したって大じょ」
「「「「「だめ」」」」」
「い、イエッサー! わたしは決して逆らいません! いつも素晴しくみなさまに従順です!…えぇと、みなさまの御顔からその険悪かつオソロシイ、殺虫剤なみにデンジャラスな、いつ『縛り付けるぞこの野郎』と言い出しても全く何も不思議じゃない表情が消えることを切望いたします。で、できることなら。」

 予想以上の剣幕に、は一気に毛布を引き上げてその下に隠れた。
 鼻から上だけが様子を窺うように出ている。
 びくびくと怯えるふりをしながら、その紅い瞳だけが悪戯っぽく笑っている。

「ほんと、びっくりしたんだからね」

 ピーターが表情を緩めながら、穏やかに言う。
 授業中、うつらうつらとしていたピーターは、ガタアァーンという大きな音に驚いて振り返った。
 そこには顔を普段よりずっと白く、ほとんど青白くさせたが、床に伏している姿。
 ざっと血が音をたてて引いていくあの震えるような感覚は、今でも鮮明に覚えている。

、お願いだから無理しないで」

 ピーターの懇願するような響きに、が顔を出して申し訳なさそうな色を表情いっぱいに滲ませる。
 顔を顰めたリリーがピーターに続く。

「ピーターの言うとおりよ。あなたはいつも無理ばっかり」
「うん」

 頭を垂れると、溜息が聞こえた。

「いつもいつも『大丈夫』の一言で済まして。僕らに心配をかけまいっていう心遣いは嬉しいけど、いくらなんでも限度があるよ」

 顔を上げると、リーマスが真剣な顔をしていた。
 シリウスもこくこくと頷きながら、口をへの字にしている。

「無理されてる方が、こっちは心配だっての。さっさとギブアップしてくれた方がこちらとしちゃ安心だ」
「へえ、馬鹿犬もたまには人語が話せるんだね。まったく的を得てるよ。はなんでも1人で背負い込みすぎるんだ。たまには僕らを頼ってくれても、いいんじゃないかい?」

 同意を求めるように、ジェームズが優しい表情をする。
 シリウスが「…ジェームズ?」と低い声で唸ったが、完全かつ完璧に無視された。

 はひとりひとりの顔を見回して、それから深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 全員がほっと息を吐き、それぞれ許しの言葉を呟いた。
 けれど。
 誰にも見えない、俯いたの表情は、酷い痛みを堪えるているかのように歪んでいた。
 それさえも序序に消えて、何の感情も読み取れない不自然な顔になる。
 しかし、誰もそのことに気付くことはなかった。


 頼ることなんてできない。

 わたしはここにいるだけで、この温かな友情を裏切っているのだ。

 ごめんなさい  ごめんなさい

 そして


「ありがとう」















 輝く太陽が 青空のもとの日々が 覆い隠される そのときが いつかは




















2004.9.7.

 うわあ。接触さえしてねーよ。
 どうよこれ夢として。(いや自分で書いたんだけど)