何も起こらないと 思ってた















 名前は知っているし、会話に似たものも交わしたことがある。
 しかし、コレと言って接点もなく、話しかける理由も必要もない。
 だから何も起こることなく、あんな小さな出会いなど、忘却の彼方へと追いやられて行くのだと思っていた。
 そう。
 既に2人とも忘れかけていた。
 今日、こんな再会をするまでは。

「おい」
「なんざんしょ」
「…その手を離せ」
「ここは君からどうぞ」
「ふざけるなよ」

 は読書が好きだ。むしろ、趣味と言えるものはこれしかない。
 マグルの本もそうでない本も、好き嫌いはあるものの偏見なく読む。
 今日は週末の休日だった。明後日が提出日であるレポートを書くのに必要な資料を得るために、図書館へと足を運んだ。
 読書仲間のリリーのオススメの本を思い出し、急ぎ足でその棚へ向かった。
 ホグワーツの図書館は大きい。
 書籍だって、掃いて捨てるほどある。
 それなのになぜ、全く同時に同じ本に手をかける人物がいるのか。
 は不思議で仕方がなかった。
 そしてよりにもよって、相手は、

「絶対に、私の方が先だった」

 不機嫌度87%ぐらいと思われる、セブルス・スネイプなのだ。

「いや、れいコンマ1秒ぐらいで、わたしの方が早かったよきっと」
「目の錯覚だ。気にするな」
「気にするよ。これ借りたいんだもん」
「非常に不本意だが、私も同様にこれを借りたい」

 つまり、2人とも譲る気はさらさらなかった。
 スネイプは小柄なを威圧的に見下ろしていたが、も負けじと睨み返す。

「さっさとその手を離せ。私の手が汚れるだろう」
「まっ、女の子の手に向かって、『汚れる』とはなんて失礼な」
「煩い。君に用はない」
「わたしにはレポートが掛かってるんだ」
「私もレポートを書くためだ」

 睨み合いながら口論をする2人の手は、本の背表紙から離れない。
 魔法薬学の参考書だった。

「レポート書かなかったら、ベイルダム先生に怒られるんだよ、わたし」
「私の知ったことか。確か貴様、魔法薬学の成績は目を覆うようなものだったな。それなら、自分の稚拙なレポートと私のレポートと、どちらに価値があるか考えるまでもないだろう。ということで、犠牲になりたまえ」
「何が『ということで』だよ。これ以上成績落ちたら、洒落になんないでしょ!」
「心配するな。それ以上落とすのは人類として無理だ」
「だから、このレポート書かなかったら、落としちゃうんだって」
「つまり貴様、人類以下か」
「煩いッ」

 ベイルダム教授は、魔法薬学の教師であると同時に、スリザリンの寮監でもある。
 例に漏れず、グリフィンドールへの差別は厳しい。
 下手をすれば、薬学の単位だけで留年になってしまう。

「スネイプくんは成績良いんだから、こっちに譲ろうよ。世の中助け合いの精神だってよく言うじゃないか」
「生憎、そんな精神は持ち合わせていない」
「…だよね」

 2人は同時に溜息を吐いた。
 打開策はないものかと、は思考を巡らせる。
 答えは1つ行き当たったが、相手が首を縦に振るとは思えない。
 思えない、が。
 一応口にしてみることにした。

「あのぅ」
「なんだ、気色悪い。鳥肌が立ったぞ」

 本気で鳥肌をたてたらしいスネイプに、はむっとする。
 しかし、ここで怒ってはいけないと自分に言い聞かせ、フレンドリーフレンドリーを頭の中で唱えながら、顔に笑みを貼り付けた。

「レポート、一緒に書いた方が早くない?」

 重い沈黙が落ちた。
 2人の周囲だけが、気温が2,3度下がったようだった。

「……ふざけてるのか?」
「わたしはいつも大真面目」
「どこがだ」
「全てが」
「……馬鹿か」
「馬鹿じゃないよ」
「では大馬鹿だな」
「違うってば。じゃあ、スネイプくんには他に打開策があるわけ?」
「………」
「(勝った!)」

 そういうことになった。





 もともと休日の図書館というのは、あまり人気のないものだが、それでも誰かに見られては迷惑だと彼が言うので、慎重に席を選んだ。
 誰の視界にも入らないだろうと思われる席を見つけるのに、一体何分を無駄にしたのだろうか。
 溜息を吐いたを、スネイプが不機嫌に睨んだ。

「やるのか、やらんのか」
「あ、やりますやります。っていうか、できるなら教えてください」
「それが目的か」
「20%ぐらいはね」

 約80%は真面目に書くつもりらしい。
 よもやグリフィンドール生と並んで座る日が来るとは思わなかったと、スネイプは天井を仰いだ。

 カリカリ、カリカリ、と2つの羽ペンが、それぞれ羊皮紙の上を滑る。
 1つしかない本でレポートを書くのは、思っていたより困難なことだった。
 が20ページの一文を抜き出している途中で、スネイプは60ページを読みたいと言う。スネイプが60ページを読み出すと、は仕方なくスネイプが終わるのを待つ。
 といった具合で、ちぐはぐに作業を進める2人の姿は、少々奇妙なものだった。
 最初こそ躊躇い遠慮していたも、それさえ面倒臭くなって、淡々とやり取りをするようになった。

「あれ…この反応、矛盾してる」

 思わず小さく漏らした疑問に、首の骨を鳴らしていたスネイプは、目だけで反応を見せた。
 溜息を1つ吐き出した後、

「何がだ」

と、頬杖をついて促した。
 意外だったは一瞬唖然としたが、気が変わっては大変と、さっと羊皮紙を差し出した。

「ここんとこ。ここで言ってることと、こっちの結果が矛盾してるでしょ」
「……ふん、基本的なミスだな。この2つの相違点が分かるか」
「………?」
「よく読め。材料の部分だ」
「………………あ、スペルが違う。……そっか。これとは別の物質なんだ」

 スネイプはざっとレポートに目を通し、思っていたよりよくできているのに驚いた。少なくとも平均以上だろう。
 それなのに何故、薬学の成績だけ悪いのか。

「ありがと」

 それだと、途中からやり直しだと思い当たり、は片手で黒髪の頭を掻き毟った。
 カーッと親父のような声を出した後、ぶつぶつと何事かを呟きながら作業を再開した。

「何、この変な名前の虫。ってか、なんで薬に虫を使うわけ。誰が飲むの、それ。消費者センターに訴えるぞ、コノヤロウ」

 どうやら虫に文句を言っているらしい。
 ぼんやりとグリフィンドールとの合同授業を思い出した。
 そういえば、一部が騒がしかった気がする。

「おい、
「ん?」
「もしかしなくても2週間前の授業で、『ゴキブリ』と叫んでいたのは貴様か」
「……ふ。…もう過去のことよ」

 わたしは今を生きる女なの、と視線を逸らすの横顔は、微妙に赤く染まっていた。

「ゴキブリなんぞ出てこなかっただろう」
「…色々と複雑な事情があったの」
「意味が分からん」

 本当に不可解な女だ。
 だからこそ、自分の興味を引いてやまないのか。
 いや、果たしてそれだけか?
 一度目を閉じて、答えの出ない問いばかりを繰り返す思考を叱咤すると、ゆっくりと目を開け、彼は何事もなかったかのように、レポートに向かった。
 しかし、普段より頭が上手く回らないことに、気付かないではいられない。
 スネイプは、に気付かれないよう小さく、しかし深く溜息を吐いて、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
 正常な自分が戻ってくることを祈りながら。





「じゃ、今日はありがとう、スネイプくん」
「……ふん」

 一々反応を返す自分が情けない。
 そんな彼の様子に気付く様子もなく、は穏やかに笑った。
 日も傾きかけて薄く橙に染まる廊下で、それはひどく鮮やかに映った。

「今日は楽しかったよ」

 再び動揺した自分に気付いて、スネイプは深い自己嫌悪の底に突き落とされた。
 私のプライドはどこへ消えた…。
 彼はげっそりとした表情で、彼女を追い払うように片手をひらひらと振った。

「さっさと行け」
「ん。じゃ、また今度」

 最後の抵抗とばかりに、スネイプは弱々しく鼻で笑った。

「次がないことを祈ろう」
「あるよ、きっと」

 じゃあね、は手を振って踵を返した。
 スネイプはその背中をしばらく見送って、反対方向に歩き出す。

 黒く、時に赤い、あの瞳の煌きが、頭にこびりついて離れなかった。















 何も変わらないと 思っていた




















2004.5.26.