朝がやってくる カラン、コロン、と下駄が鳴る。 もう一度背負い直して、普段より長く感じる例の坂を上る。 背中で寝息を立てる女に小さく悪態を吐きつつ、起こしていないか首を捻って確認した。 熟睡だ。 白い腕が2本、肩からぶらりと力なく下がっている。 しかし片手にはしっかりと巾着が握られ、それから射的で得たカエルのぬいぐるみが顔だけ覗かせている。 巾着が揺れるのにあわせて、ぷらぷらと裸足が揺れる。 途中で脱げた彼女の下駄は、鼻緒を掴んで自分が持っている。 まったく。 世話の焼ける。 やっと坂が終わった。 顔を上げると、暗闇の中に佇む人影を見つける。 こちらの気配に気付いたらしく顔を上げたのは、リチャードだった。 疲れたような顔で物思いに耽っていた様子だったが、こちらを見て驚きに軽く目を瞠り、それから可笑しそうに笑った。 睨むと笑みを口元だけに留めて、娘の様子を確認した。 「ご苦労さま。ここからは俺がやるよ」 起こさないように気をつけながらそっと娘を抱え上げて、彼はにっこりと笑った。 彼女の寝顔を見て、大体何が起こったのか察しはついているのだろうと思う。 その笑みに一瞬、忌々しくもリーマス・ルーピンを思い出した。 あの男もこんな風に、何もかも分かっていると言いたげな笑みを浮かべる。 それでも先程の表情を考えると…、こちらは何も解決していないのではなかろうか。 「教授は?」 を部屋に運ぼうとしている背中に声をかけると、少しの沈黙のあと「居間」とだけ答えた。 「ああ、帰ったか」 「はい」 居間に行けば確かに、出掛けるときに見たままの格好で縁側に座るベイルダムがいた。 右手の中指と薬指の間に、紫煙を上げる煙草がある。 吸っていたのだろう。 「連れは?」 尋ねる声に感情はない。 「ずっと泣いているもんだからそのまま手を引いて帰路に着いたはいいんですが、途中で転んで更に大泣き。歩けないのか座り込むので仕方なくおぶって来ました。…突然泣き止んだと思ったら人の背中で熟睡。良いご身分ですよ」 「…ご苦労さん」 苦笑を含んだ声でベイルダムは返し、フーッと細く鋭く煙を吐き出した。 背中が酷く疲れて見えた。 振り向かないのは、涙の軌跡を見せたくないからだろうか。 泣いていたのだろうか。 「何をやってるんだ、あなたは」 スネイプがボソリと言った。 「辛いのはあなただけじゃない」 ベイルダムは答えない。 彼の気持ちなら痛いほど分かる。いや、その予想以上だろう。 けれども。 「支えて欲しいのは、リチャードの方でしょう」 ベイルダムは沈黙を破ろうとしなかった。 黒猫がのそりと立ち上がり、振り返りもせずに部屋へ行こうとする少年の後を追った。 血筋などに関係しない、揺るがぬ主への忠誠を胸に。 夜が明けて。 朝は普段より静かに、 「いぃやあぁーーあ!!!」 …というわけにはいかないらしい。 今日も騒々しく一日は始まった。 「起きろっ朝飯はいらないのか!?起きなさい!!こらあ!」 リチャードが布団を引っ張りながら大きな声で言うが、は布団の中で丸まったまま必死の抵抗を続ける。 「ぜぇったい嫌!何が何でも嫌なの!ほっとけ、糞親父ッ!」 「糞親父とは何事だ!?おとーさんはそんな子に育てた覚えは……あるよ、ちくしょう」 「…と・に・か・く、どっか行ってってば!!今日は朝ごはんもいらないから!」 「……ぅ…さぃ」 「何を言うか!朝食は一日を過ごすエネルギーの源だゾ!!この馬鹿娘がッ」 「……うるさい」 「いらない!今日はいーらーなーいっ!何回言えば分かんの!?」 先程から小さな声で呟いているのは、廊下を通りかかったスネイプだ。 部屋の中で起こっている親子の戦争に暗い視線を向けて、 だん! と壁に拳を叩きつけた。 しんと静まり返った部屋で、リチャードがそっと振り返りスネイプの姿を見つける。 は布団の隙間からそっと様子を窺った。 絶対零度の視線に2人は凍りつく。 「喧しい。朝ぐらい静かにしていろ、馬鹿親子」 「「はい、すみませんでした」」 「ってことでさー。起きて来ないんだよ、ってばさー」 と、朝食の席でリチャードは、はあぁぁと溜息を吐いた。 黙々と箸を進めるスネイプに、食べながらも話に耳を傾けていたらしいベイルダム。 いつもが座っている席は空だ。 「ふーん。思春期?」 「馬鹿言わないでください。起きるのを嫌がる思春期なんてどこにあるんですか、教授」 「言ってみただ。そこまで冷たくしなくても…」 機嫌が悪いのか?とベイルダムが問う。 リチャードはまだ朝のあの目が忘れられず、びくびくと話しかけられずにいる。 「低血圧です」 簡潔にスネイプは答えた。 「なるほど。だからか」 朝には弱い上、起きたら起きたで不機嫌なので、大声を出されて切れたらしい。 リチャードがぼそぼそと何事か呟く。 聞き取れなかったスネイプは、眉を少し寄せた。 ベイルダムが通訳をする。 「おかげで起こしてこれなかった、だとさ」 「……分かりました。私が起こして来ます」 「そーしてやってくれ」 席を立ったスネイプは、ふとリチャードの前で立ち止まる。 じいっと凝視されて、リチャードは当惑して首を捻る。 スネイプはふんと鼻を鳴らして笑った。 「あんたもと同じで分かりやすいな。隠し事なんてほとんど不可能に近いぞ」 それだけ言うと、さっさと踵を返した。 ぽかんとしたままのリチャードに、ベイルダムが忍び笑う。 当惑顔で親友に顔を仰いだリチャードに、彼はにやりと笑ってみせた。 「つまりこっちも、あれから問題をどうにか片付けたことが、お前の顔にはしっかり書かれてたってことさ」 なるほど、と呟いたリチャードは、照れくさそうに頬を赤くして笑った。 「おい」 「なあに」 「お前の父親が起きろとさ」 「いぃーやぁー」 布団を頭からかぶったまま、顔を出さない。 それを承知していて、枕元に腰を下ろしているスネイプ。座っているところを見ると、本気で起こすつもりはないらしい。 「手」 沈黙。 「手を出せ」 「うん。そうやって動詞を使わないと何言ってんのか分かんないね」 「煩い。さっさと出せ」 布団の塊からにゅっと伸びた手に呆れつつ、持ってきたものをその手に握らせる。 この手を昨夜は…。 温もりを思い出して、思わず顔を火照らせる。 いや、そんなことはどうでもいいんだ。 …がこちらを見ていなくて、本当に良かったと思った。 「これ……濡れタオル…?」 「当てとけ。腫れてるんだろう」 が無意味にこんな我侭を言う女でないことは、スネイプも分かっているのだ。 昨日は本当にはよく泣いた。 子供のようにしゃくりあげ、声をあげてわあわあと泣いた。 良いことだったと思う。 あんな風に不自然に笑いながら、たった1人で恐ろしい誕生日が過ぎていくのを待っているより、ああやって泣いた方がずっと良いと思う。 しかし。 あのまま眠ってしまったのが運の尽きだ。 瞼やら、目元やらが腫れているに違いない。 目が覚めた途端、もそのことに気付いたのだろう。 「…よく分かったね」 タオルを握った手が布団の中に消えて、ごそごそとした後、やっと顔が出てきた。 タオルがアイマスクのように顔の上半分を覆っている。 「そうならそうと早く言えば良いものを」 「だって恥ずかしいじゃねえですか。この年であんなに泣いただなんてサ。…失恋したときだって泣かなかったのに」 「馬鹿が」 「煩い。馬鹿じゃないもん。何度言ったら分かんのかなァ、君は」 「何度言ったら、自分が馬鹿だという自覚を持つんでしょうかなあ」 「………このイヤミーめ」 そう言う2人の口元は、確かに微笑んでいた。 ぼくらは 強く 生きてゆく 2004.8.11. もうすぐ、夏休みも終わります。 |