走れ 走れ 逃げろ 逃げろ
 追いつかれたら そのとき きみは















「っー……」

 意識を失っていたのは、ほんの数分のことだったらしい。
 生きている。
 その事実が、を驚かせた。
 ああ、前にもこんな経験があったような。思考を巡らせて、すぐに思い当たる。
 そうだ、階段から落ちたときだ。あのときはベイルダム教授が下敷きになってくれたのだった。
 今回は密生した草木がクッションとなってくれたらしい。体中はあちこち痛むけれど、骨が折れたなどの大怪我はなさそうだ。

「しっかしよく生きてたなーわたし」

 ゴキブリ並みとはこのことですか。
 ひとり感心しているは、鋭い鳴き声に振り向いた。
 声の主は、共に落ちてきたらしいである。怪我はないようだ。
 安堵の息を吐いたところで、彼女の様子がおかしいことに気付いた。
 黄金の瞳が険しい。腰を下ろすことなく、いつでも応戦できるような構えで周囲を警戒している。
 を見る目は、警告のようだ。
 辺りを見回す。何か危険なものでもあっただろうか。
 奇妙な形に捻れたような木の幹が連なり、絡まりあって育っている。密生しているので陽光は大地まで届かず、夜のように暗かった。
 あまりの毒々しさに目を逸らそうとしたとき、のものではない動物の鳴き声が聞こえた。
 囀り、というのは適切でないと思われる、断末魔に似た怪鳥の鳴き声。雄叫びとも遠吠えともとれる生き物の叫び。

「あ」

 の険しさの真意に気付いたは、ざっと血の気が引く音を聞いた。

 ここは、禁じられた森である。

 ニ゛ャーー!!
 怒りで構成された鳴き声は、のもの。
 何事かと振り向けば、そこには見たこともないような……いや、あまりにも見たことのある形であるが、信じられないような大きさの生き物がいた。
 数多の目が、こちらを見ていた。





 どれくらい走っただろう。
 痛みが一層強くなる。いっそ麻痺して感じなくなればどれだけ良いか。
 足は重いが、それでも普段よりずっと速く走っているような気がする。
 今なら苦手だった徒競走でも一位が取れそうだ。50メートル走10、1秒のわたしにしては驚異的。
 …現実逃避にも限界はある。
 ピシャッと音がして、視界に白いものがよぎった。すぐ近くの木に、“あれ”が吐いた糸が叩きつけられたらしい。
 その粘着質の糸に捕まれば、それこそ無力な蝶のように絡め取られてしまう。
 、現在15歳。死ぬならあったかいベッドの上で、子供と孫に看取られるのが理想です。喰われるなんて論外です。
 ――蜘蛛なんか怖くないって。悪さするわけじゃないんだから。
 父の言葉が蘇る。
 お父さん。あなたの言葉は間違ってません。ええ、間違っていませんとも。しかし何事にも例外はあるのです。

「どわああぁぁ!!」

 ついに、糸がの足を止める。
 吐き出された巨大なガムのようなそれが、右足を地面に縫い付けた。
 勢いあまって転んだに、石や小枝による痛みが襲う。
 いつの間にか、からだのあちこちに切り傷や擦り傷がある。
 滲む血が土にまみれた。

 キシャーー!

 巨大な蜘蛛が、じっとこちらを見ている。
 動かないのは何故か。
 ああ、そうか。新しい糸を吐くためだ。

 その、口と思しきものが動いた。
 白いそれが視界を埋め尽くす。

 と思われたそのとき。



 黒い獣がの視界を遮った。



 を庇うような体勢で、形容できない雄叫びを発した。
 獅子や虎のそれに似ている。
 実際、その獣も猫科のようである。
 しかしの位置からは黒い四肢と、長い尻尾だけしか見えないので、詳しいことは判然としない。
 低く大きく響いたその声は、目には見えない壁をつくった。
 ドーム型の壁と白いそれがぶつかり合うことで、強い風が生じる。
 轟々と音をたてて吹き抜ける風が、木々の枝や葉を揺らした。
 ざわざわと木々が騒ぐ。
 止まっていた鳥たちが一斉に空へ飛び立った。
 吐かれた糸は壁の強固な守りに負けて、獣にも庇われたようにいるにも当たらず、びしゃびしゃと辺りの木の幹に張り付いた。

 ゆらり、と高く上げた獣の長い尻尾が揺れる。
 黒い毛並みはどこまでも滑らかで、流れるような光沢の波が美しかった。

「妾の主に手をかけようとは、良い度胸じゃのう虫けら」

 獣が言った。
 人語である。
 声音は女性的で、滑らかだった。
 カシャカシャと蜘蛛が歯を鳴らし、言葉を理解できないでも分かるほど友好的でない返答をした。

「ほう。妾に喧嘩を売るつもりかえ?未成熟な坊やの言いそうなことよ」

 大人の女性の物言い。
 小ばかにするような口調であるのに、どこか艶かしさを感じずにはいられない

「お前、アラゴグ坊やのせがれだえ?おや孫かえ?彼奴もそんな歳かのう……ほら、何を突っ立っておる。今回は見逃してやろう。さっさとお行き」

 しかし、蜘蛛はまた一歩踏み出そうとする。
 途端、今までの物腰が嘘のように、グワアアァと彼女が大きく鳴いた。
 それにビクリと反応を示した大蜘蛛が、一歩、二歩と後退する。

「坊や、アラゴグにお伝え!昔の恩を忘れたわけではあるまいッ、それでも我が主に手を出そうと言うのなら喜んで妾が相手になろうとなあ!」

 鋭い一喝に、とうとう蜘蛛は姿を消した。
 名残惜しげなカシャカシャという音が、少しずつ遠のいていった。





 ゆっくりと獣の尻尾が下りて、垂れた。
 は彼女の全身神経がこちらに向けられているのを感じた。
 しかし、振り向こうとしない。
 先ほどまでの威勢はどこへやら、ぴくりとも動かなくなってしまった。

「……ぁノさ」

 声を上げて、喉が嗄れていることに気付いた。
 けほけほと咳をすると、ほとんど反射的のように獣が振り返った。
 黄金色の瞳に、心配そうな色が浮かび、それから振り返ってしまった自分の失態に気付いた。
 そして、やはりそのまま動かなくなった。
 その様は何かに怯えているようにも見える。
 次に起こる事態を、知りたくないよいうように、黄金色の瞳が揺れる。
 は何度か咳払いをして喉の調子を確かめると、唐突にぺこりと頭を下げた。

「ありがとう」

 倒れたときに切ってしまったらしく、頬に血をつけたぼろぼろのは、にっこりと笑った。

「すごいねえ、が大きくなれるなんてわたし知らなかったよ。しかも喋れるんだね、すっげーかっこいー!どうしてもっと早く教えてくれなかったのさ。あ、ねえねえ、さっきの壁みたいなの何?アラゴグって誰?あの蜘蛛知り合い?」

 獣は……黒豹の姿をしたは、大きく目を見開いたあと何度か瞬きをして人間じみた仕草で笑った。
 何も怯える必要はなかったのだと。
 この姿を見ても、自分は主に受け入れられたのだと。
 今にも泣きそうな面持ちで、幸せそうに笑った。

「その話はあとにしましょ。それより」




「そう。ここを抜けるのが先決だ」




 降ってきた人間の声に、が同時に顔を上げる。

 そこには、箒に乗った汗だくの彼がいた。
 疲れと安堵がない交ぜになった複雑な表情をしながら、彼はゆっくりと大地に降り立つ。


「…スネイプ」


「探したぞ、















 助かることを 祈るしかない




















2004.7.2.
 さんとうとう正体を現しました。
 実はこれは当初から決まっていた設定で、この回書くのが本当に楽しかった。書けて良かった!(幸)
 ちなみにさんの口調は二種類あって、威張って話すときは昔の一人称・妾(わらわ)を使います。気軽なときはあたしでいきます。