「こ、こ・・・どこ・・・?」 何かが始まったのは、いつだっただろう。 昼だと言うのに薄暗いその店で、は固まっていた。 灰まみれのは、たった今じめじめした、この気味の悪い店の暖炉から滑り出てきたばかりだった。本が、骨が、薬が、臓器が、ずらりと棚に並んでいる。薄く色のついた液体の中に浮かぶ、死んだ蛙と目が合った気がして、は真青になった。 この店の主らしい醜い白髪の老人が、濁った目でをギロリと睨んだ。 「なんだ、迷子か嬢ちゃん」 その口調のいやらしさに、は益々警戒を強くした。 「は、はい。あの、ここはどこでしょう」 ダイアゴン横丁を目指したはずである。 ダイアゴンにこんな店があるはずはないと思うし、彼の言い方からしても、ここに迷い込む者は少なくないらしい。 フルーパウダーを使ったとき、舌を噛んでしまったのが不味かったのかもしれない。 「ここはノクターンだ。そぅら、分かったら出て行け。客の邪魔だ。それとも何かい。何か買って行くのかい?」 「いえ、失礼します!」 勢いに任せて、さっとそこを飛び出したのは良かった。 けれどやはり、ここがどこなのか、よく分からない。 店の外で、服に付着した灰を払いながら、辺りを見回した。そしてどう見ても、自分は不味い状況にあることを確認する。 店の中もそうだったが、外の通りも薄暗い。日の光を嫌うように、背の高い壁や塀が並ぶ。その最も薄暗い場所を沿うように、ちらちらと人影があった。皆、顔を隠すようにフードを深く被り、隠さないものは醜い顔を曝け出していた。 静かではある。けれど、穏やかではない。 今まで見たこともないほど、不気味な顔をした場所だった。 「どうしよう」 不安が勇気を押しつぶすのを感じる。 見知らぬ場所に放り出されたときの対処法なんて、いくらホグワーツでも教えてくれたことはない。 「・・・・・・とりあえず、歩こう」 たくさんの視線から逃れるように、ふらふらと歩き出した。 気のせいではなく、は自分がたくさんの目を惹いているのに気付いた。子供がこんなところにいるのは、おかしいのだろうと思う。しかしそれ以上に気になるのは、その視線に込められたものだ。嫌悪ではない。悪意でも、ないだろう。 獲物をみつけたケダモノの、餓えた目に思えた。 は恐怖にほとんど走るようにして歩いている。 「どうしたんだい、お嬢ちゃん」 突然、暗闇から伸びてきた手に、腕を掴まれる。 驚きに身を引こうとするが、思いのほかその力は強い。萎びて骨ばった手の主は、見にくい老婆。鋭い爪が異様に赤かった。 「こんなところに、何のようだい?」 優しさを滲ませた声音も、その目が台無しにしている。 ぎらぎらと底光りする薄い灰色の目。見えているのか、見えていないのか、ひどく濁っていた。その目を三日月形に細くして、彼女は笑った。 「迷子なんだろう?あたしが案内してあげるよ」 何処へ、と言っていない。 何処へ連れて行くつもりなのか。 本能的に危険を感じて、は精一杯抵抗した。 「い、いいです!離してッ!」 「お黙り!大人しくついて来ればいいんだよ!」 突如声を荒げた老婆に、は身をすくませる。 ぐいと、その手を引かれた。 「ぅわ」 あまりの強さに、体が前に傾いた。 地面とご挨拶する直前、ぐいと襟首を引っ張られる。。 ぐえ、と小さく呻き声を漏らし、地面に手をついて立ち上がる。 襟首を掴んでいたのは、あまり年の変わらなさそうな少年だった。 苛立ちを滲ませた目でを一瞥すると、醜い老婆を睨みつける。老婆は先ほどの強気はどこへ行ったのか、おどおどと暗闇に引っ込んだ。 「去れ」 冷たい一言で、老婆はさっとどこかへ消えた。 なんなのだろう、この少年は。 呆然としているは、少年を仰ぎ見るばかりだ。見上げる形になってしまうのは、彼がそれほど長身というわけではなく、単にが小柄なだけだ。 よほど間抜けな顔をしていたのだろう。少年は軽蔑するように見下ろした。 慌てて頭を下げる。 「あの、ありがとうございました!」 この通りでは、その明るい声がひどく場違いで、すぐに注目されていることに気付く。 少年は舌打ちをして、さっと踵を返した。 スタ スタ スタ スタ てく てく てく てく スタスタスタスタ てくてくてくてく 「おいっ」 苛立ちを隠そうともせずに、少年は立ち止まり振り返ると、ギロリとを睨んだ。 はびくりと一瞬肩をすくめたが、それほど恐怖してはいなかった。 「いつまで付いて来るつもりだ」 問われて、は困惑しながら少年を見上げる。 「ダイアゴンに行きたいんですけど」 首を捻る様に、少年は彼女が迷子であることを思い出す。 額を押さえて溜息を吐く。 元々、彼は面倒ごとに首を突っ込むつもりはなかったのだ。彼女が誰にからまれていようと、口を出そうとは思っていなかった。しかし、ちょうど横をすり抜けるときに、彼女が顔面から倒れそうになるものだから、反射的にその襟首を掴んでしまったのだ。それは彼にとってとんでもない失態で、自己嫌悪に陥るばかりだった。しかし、一度自分で招いた不幸。 重い口を開いた。 「付いて来い」 そのコンパスを最大限に生かした彼独特の歩きで、少年は再び歩き出した。 は一瞬驚いた後、慌てて後を追った。 なかなか追いつくことはできず、気が付いたらほとんど走るようにして彼と並んでいた。 狭い道、細い道を右へ左へ。 離されて、追いかけて、追いついて、離されて。何度をそれを繰り返しただろう。 突然、開けた場所に出た。 魔法使いや魔女が行き交い、笑い、話、品々を手に取っては値踏みしている。子らの目は期待や喜びに輝き、大人たちの服装は色彩様々に華やいでいる。日のあたる、見慣れた通り。 間違いなくダイアゴン横丁である。 「ここまで来れば、フルーパウダーの使い方を間違えるようなとんでもない馬鹿でも分かるだろう」 「あ、はい」 皮肉られているのは分かっていたが、反論もできずには頭を下げた。 「ありがとう、ございました」 頭を上げたとき、そこには既に彼の姿はなく、見回して、ただちらりと後姿を見つけただけだった。 「あれ、誰だったんだろぅ」 それは、15の夏の終わりの出来事。 「ねえ、待って!」 人気のない廊下で、彼は呼び止められた。 彼を呼び止める者など、最近ではほとんどいない。少しの驚きと共に振り向くと、赤と金のストライプが目に入った。 嫌悪。 憎悪。 彼のそれらの感情の対象である色合い。 ぐっと不機嫌に、眉を寄せた。 見れば、彼女はいつも、憎きポッター一味とつるんでいる少女である。東洋人のくせに、妙に英語が上手いことだけ記憶している。 「これはこれは。グリフィンドールがスリザリンに何のご用ですかな」 最大限に嫌悪を込めて、彼は問うた。 「あの、覚えて、ない?」 困惑に僅かに首を傾げる様に、スネイプはやっと思い出した。 あのときは彼女が私服だったから分からなかったが、そうだ。つい最近ノクターンで巻き込まれた、厄介ごとの原因である。 「そういえば、貴様。最近ノクターンで見かけた、餓鬼でもないのにフルーパウダーの使い方を間違えた女によく似ている。しかし、私の人違いだろう。そんな馬鹿がホグワーツに入学できるとは思えない」 失礼、と哂う。 一瞬キョトンとした彼女は、さっと顔を赤らめた。 一応厭味には気付いたらしい。 「じゃあ、君も馬鹿だよ。3日前に会ったばかりなんだから、普通顔を見ただけで気付くべきでしょ。わたしが言うまで、わたしのことなど忘れてたんじゃない?」 言い返すに、スネイプは不覚にも心底驚いた顔をした。 ノクターンで出会った彼女は、怯えた小動物のようで。無力で非力で人畜無害、そんなイメージしかなかったから。 頬を僅かに赤くさせながら、言い返すはそれを見事に裏切っている。 沈黙の中、雲から太陽が顔を覗かせ、窓から光が差し込んだ。 斜めに差し込む陽光に、黒い瞳が赤く煌く。 一瞬、真紅にさえ見えた。 黙りこんでいるスネイプに、にっとは笑った。 「君は馬鹿だよ」 スネイプはハッと我に返って、不機嫌に顔を顰めた。 彼女の態度に。自分の行動に。彼女の言葉に。自分の失態に。呆れる。 「貴様が馬鹿だ」 「違うよ」 「いいや、馬鹿だ」 「わたしは馬鹿じゃないよ。・だ」 君は?と促す。 彼は不機嫌に、それでも口を開いた。 「私は馬鹿じゃない。セブルス・スネイプだ」 何かが始まったのに 気付いたのは いつだっただろう。 2004.5.2. |